【バレエの歴史】日本にバレエが伝わったのはいつ頃? そして、誰から?
中世ルネサンス期のイタリア生まれ、フランス育ち、ロシアで成熟したバレエは、日本にいつ頃伝わってきたかご存知ですか?
また、誰がこの国にバレエ文化を伝えてくれたのでしょうか?
今や、舞台芸術として多くの人に愛され、習い事の定番として親しまれているバレエ。その歴史を紐といてみると、海外からやってきた舞踏家や踊り子の存在、バレエの普及に力をそそいだ日本人ダンサーの登場など、色んなドラマを知ることができます。
1911年 帝国劇場の開幕を記念した「フラワーバレー」
明治の終わりに海をわたってきたバレエ文化
日本で最初にバレエが演じられた記録をたどると、明治の終わりの1911年に行きつきます。
きっかけは、東京の皇居近くに建てられた「帝国劇場」のオープンでした。ルネサンス様式で建てられた帝国劇場は、館内の階段や通路に真っ赤なじゅうたんが敷かれ、大理石がぜいたくに使われた日本初の西洋演劇場建築でした。
この大劇場の完成を記念する公演で披露された『フラワー・バレー(フラワー・ダンス)』が、日本で初めて演じられたバレエと言われています。
当時の書き方が、いまの『バレエ』ではなく、レシーブ・トス・アタックでおなじみの『バレー』だったことも驚きですね。
その翌年、イタリア人舞踏家のG.V.ローシーが来日
西洋風の帝国劇場が目指したのは、日本の芸能文化の発信だけでなく、西洋の文化や芸能を広める中心拠点でした。
当時、世界で親しまれていたオペラやクラシック・バレエを広めるため、開館翌年の1912年、ロンドンの劇場で活躍していたイタリア人の舞踏家を招きます。
その人の名は、ジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシー(G.V.ローシー)。
バレエ発祥の地から招かれたローシーは、日本人へのバレエ指導を始めますが、伝来して間もないバレエは、なかなか日本に定着しませんでした。
1916年 ロシアのマリインスキー劇場が初来日
ロシア革命前夜に帝国劇場で公演
クラシック・バレエの本場であるロシアと日本は、1904年〜1905年に日露戦争を戦った間柄ですが、終戦後の関係修復は思いのほかスムーズだったようです。
1916年6月、ロシア・サンクトペテルブルクのバレエ専用劇場として名を馳せていた「マリインスキー劇場」から3人のダンサーが来日し、帝国劇場でバレエを上演します。
公演日は、なんと、ロシア全体をゆるがす「ロシア革命」の直前。実は、このロシア革命が、その後の日本のバレエ文化発展に大きな影響を与えるのです。
1919年 ロシアから亡命したエリアナ・パブロワ
横浜でバレエ公演、鎌倉でバレエ教室開校
ソヴィエト連邦(ソ連)が始まるきっかけとなったロシア革命は、ロシア国内でバレエの舞台に立っていたバレリーナたちにも影響が及びます。
革命の混乱から逃れ、ロシアを亡命し、1919年に日本へやってきたエリアナ・パヴロワもその一人です。
エリアナ・パブロワとその家族は、横浜のゲーテ座でバレエを上演。関東大震災をはさんで再来日した際には、鎌倉にバレエ教室を開いて、たくさんの日本人ダンサーを育てました。
1922年 アンナ・パブロワの『瀕死の白鳥』
あの芥川龍之介も絶賛した踊り
日本でバレエの認知度が高まり、注目をあびるきっかけとなったのが、ロシアから亡命してきたアンナ・パブロワの来日でした。
ロシア革命の後、バレエ団を結成してインドや中国などを巡るアジアツアーを行っていたアンナ・パブロワは、1922年に日本へやってきます。
ここで披露された演目が『瀕死の白鳥』。
白鳥に扮して踊るアンナ・パブロワの姿に、多くの日本人が感銘を受け、その中には文豪の芥川龍之介もいたのだとか。
日本舞踊を学んだアンナ・パブロワ
アンナ・パブロワは、日本にバレエを広めただけではありません。
なんと、当時の有名な歌舞伎役者から日本舞踊のイロハを学び、海外での公演で披露したこともあるんです。
日本舞踊も習得したバレリーナのアンナ・パブロワは、日本とロシアを芸術のかけ橋で結んだ大女優でした。
日本人バレエダンサーの小牧正英氏の功績
21歳の時、パリへの渡航を夢見て満州へ
最後にご紹介するのは、日本のバレエ文化発展に大きな功績を残した日本人、小牧正英氏です。
日本初のバレエが上演された1911年に生まれた小牧氏は、21歳のとき、『ロシア舞踏』という書籍で見た衣装デザイン画と舞台美術に感動し、「パリで画家になること」を決心して満州へ渡りました。
その後、シベリア鉄道の貨物車に忍び込んだ際、ソ連国境で鉄道員に見つかってしまい、中国のハルピンへ送還されてしまいます。
小牧氏は、訪れたハルピンでロシア人の先生からピアノを習う機会を得ますが、ある日「このままピアノを習っていても意味がない」からと、バレエを習う道を勧められました。
戦後すぐの1946年に『白鳥の湖』を全幕上演
ロシアにほど近く、西洋文化の色が濃い街にある「ハルピン音楽バレエ学校」の門を叩こうとした小牧氏でしたが、残念なことに、ロシア人しか入学できないという決まりがあったのです。
それでも、毎日のように学校へ通い詰め、テストを受ける許可を得て、ハルピン音楽バレエ学校へ入学。憧れのパリへの渡航は叶いませんでしたが、ハルピンの街で大きなチャンスを掴みます。
次第に頭角をあらわした小牧氏は、ハルビンや上海などでの公演に出演し、さまざまな役を経験します。
その後おこった戦争の混乱を経て、1946年4月に上海から日本へ戻った小牧氏は、仲間と共に東京バレエ団を結成。
その年の8月、帝国劇場で日本初となる『白鳥の湖』の全幕公演を成功させました。
『バレエ』も『白鳥の湖』も小牧氏が名づけ親
小牧氏が監修・振付・指導のすべてを担当し、自ら出演もした『白鳥の湖』の公演は、22日間にわたって連日超満員に。バレエの魅力は、戦後すぐの日本に元気をあたえる舞台芸術になったんです。
小牧氏のすごいところは、それだけではありません。
日本に伝わってからずっと『バレー』だった表記を、バレーボールと間違うことがないようにと『バレエ』に改めます。
また、今では当たり前のように呼んでいるバレエの名作『白鳥の湖』の名付け親でもあるんです。
もともとは、『白鳥湖』だった日本語の演目名に、“の”の一文字を加えたのも小牧氏の偉大な功績です。
日本のバレエの歴史は、まだ100年ちょっと
ロシア革命があったからこそ
日本にバレエが伝わってきてからの歴史は、帝国劇場が完成した1911年から数えて、まだ100年ちょっとです。
西洋風の帝国劇場で『フラワー・バレー(フラワー・ダンス)』が演じられて以降、イタリア人の舞踏家G.V.ローシーが指導のために来日し、ロシアを亡命したエリアナ・パヴロワやアンナ・パブロワらの登場によって、バレエの文化は少しずつ花開いていきました。
日本にバレエが知りわたり、認められ、根づいた歴史を紐といてみると、バレエの本場ロシアで起こった「ロシア革命」のおかげとも言えます。
ひとつの文化が国境を越えるきっかけは、いろいろあるんですね。