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2020年9月26日
バレエ

【チャイコフスキー】生誕180周年を迎えた「三大バレエ」の生みの親

『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『眠れる森の美女』
これらは、バレエを習っている人はもちろん、バレエをほとんど知らない人でも一度は耳にしたことがある曲名です。
この3曲は「三大バレエ」と呼ばれ、世界的に超有名なバレエ音楽ですが、作曲家はすべてチャイコフスキー、振付師はすべてマリウス・プティパという黄金コンビがつくりあげたものです。
今回は、2020年に生誕180周年を迎えた“リズムの天才”、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの人物像や三大バレエ曲が生まれた背景などをご紹介します!

遅咲きだった音楽家・作曲家デビュー

音楽の才能はピカイチながら、法律の道へ

『白鳥の湖』をはじめとするバレエ音楽をはじめ、数々の交響曲や協奏曲を作曲したチャイコフスキーは、1840年5月7日、ロシア・ウラル地方の鉱山技師の家に生まれました。
子どもの頃から音楽的な才能はピカイチだったのですが、両親の意向によって10歳の頃に法律学校へ入学します。
19歳になる年、無事に法律学校を卒業したチャイコフスキーは、法務省に就職。音楽と関わることのない毎日を過ごしていましたが、1961年の秋に転機が訪れます。
それは、知人の紹介で「ペテルブルク音楽院」へ入学できたことです。

本格的な音楽教育は21歳のときだった

ピアノを弾いていた幼少期を思い出しながら、だんだんと音楽の魅力にとりつかれたチャイコフスキーは、23歳のときに法務省を退職。本格的に音楽の道で生きていく決意をします。
世界的に有名な作曲家の多くが、小さい頃から音楽の英才教育を受けている一方で、チャイコフスキーの本格的な音楽教育を受けたのは21歳、音楽の道を進み始めたのは23歳と遅咲きだったんです。

モスクワを拠点に、先生兼作曲家として活動

ポテンシャルが高すぎて…酷評された作品も

1865年に「ペテルブルク音楽院」を卒業したチャイコフスキーは、モスクワの「帝室ロシア音楽協会」やできたばかりの「モスクワ音楽院」で講師を長年務めます。
モスクワ在住時から作曲活動に熱を入れ、音楽の先生の仕事をこなしながら、さまざまな楽曲を世に出します。
ただ、1875年に発表した『ピアノ協奏曲第一番』は、初演を依頼したニコライから「この楽譜を演奏するのは無理!」と酷評されるなど、チャイコフスキーの高すぎるポテンシャルがあだになることもあったのだとか…。

『白鳥の湖』は苦悩の中から生まれた大作

メロディーの切なさや儚さの影に…

三大バレエの中でも特に有名な『白鳥の湖』も、モスクワ在住時の1877年に完成した大作でした。
華麗で、明るいイメージのあるタイトルでありながら、どこか切なさや儚さを感じさせるメロディーの『白鳥の湖』ですが、その背景には、チャイコフスキーの苦悩があったと言われています。

妻との結婚でくるい始めた人生

音楽の道をひたすらに歩んできたチャイコフスキーは、『白鳥の湖』を完成させた37歳の年に、彼の才能に惚れ込んだ20歳の女性アントニーナ・ミリューコヴァと結婚します。
幸せな生活が待っているかと思いきや、人間的にきついことろのあったアントニーナとの夫婦生活は、長続きしません。
離婚の申し立てをしても受け入れてくれないアントニーナに嫌気がさしてきたチャイコフスキーは、病院送りになったり、モスクワ川で自殺しようとするほど、精神を病んでしまいました。

離婚問題の真っただ中に完成した『白鳥の湖』

『白鳥の湖』ができあがったのは、ちょうどこの頃。
もともと内気で、人と接するのが苦手だったチャイコフスキーが、妻との縁を切るために苦悩していたタイミングで作られた曲だったんです。
後にマリウス・プティパが振り付けを考えて脚光を浴びるまでの『白鳥の湖』は、周りからの評判もイマイチで“お蔵入り”とも言われるものだったというから、驚きです。

晩年に生まれた『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』

後に「三大バレエ」と呼ばれる名作が完成

妻と離婚するために精神的苦痛を受けたチャイコフスキーは、先生を務めていたモスクワ音楽院を1978年に退職し、ヨーロッパの各地を転々としながら作曲活動に専念します。
その後、父親や音楽の道を開いてくれた知人の死を乗り越え、モスクワ郊外のマイダノヴォ村に住みながら作曲を続けたチャイコフスキー。晩年の1888年に『眠れる森の美女』、1891年に『くるみ割り人形』に作曲し、後に「三大バレエ」と呼ばれる不朽の名作を大成させます。
作曲活動に集中できる静かな環境の中で、次々に名曲を発表したのでした。

“リズムの天才”のメロディーは世界中で愛されている

1893年には、「すべての作品の中で最高傑作だ」と語るほどの自信作『悲愴』が完成。この交響曲が、チャイコフスキーの最後の作品となってしまいます。
『悲愴』の初演からわずか9日後、チャイコフスキーは急死。一説には感染症のコレラが原因だったと言われており、創作意欲の衰えないままに最期のときを迎えてしまいました。
“リズムの天才”と賞されたピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの、情緒的で親しみやすいメロディーラインは、生誕から180年、他界から約130年がたった今でも、世界中の人々から愛されています。

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